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みなさんご存じですか?練馬には数多くの漫画家がいることを。
誰もが知る巨匠たちがこの街に顔を揃え、それを慕って若い才能も集い、
歴史に名を残す名作がたくさん生まれていきました。
ま、つまり、クールジャパンは練馬に足を向けて寝られんぞ、と(笑)。
というわけで「ねりまん独占企画 練馬のキラ星インタビュー」の第1弾は、
西武鉄道のラッピング電車や練馬区の住民票デザインでもおなじみ、
松本零士先生にお話をうかがうことができました。
なんたるラッキー!
大泉のご自宅兼スタジオにお邪魔して、約2時間。
今回は、その前篇をお届けします。
いやいや、先生のほとばしる練馬愛に圧倒されっぱなしでした!

撮影:雷蔵  インタビュー:早瀬マサト、丸尾宏明、雷蔵  文・構成:丸尾宏明

 

ねりまん最初のふるさと九州時代と漫画の仲間たち

 私と石ノ森(章太郎)氏とは同年同月同日生まれで、同じ道を志し、しかも同じ練馬区に住むという奇跡のような縁があるし、なんか、仲間がみんな西武沿線に住むという不思議な現象があって…。

 上京当初、私は地下鉄本郷三丁目駅前の「山越館」に下宿しましてね。上京したその日にちばてつや氏、横山光輝氏に出会ったんですが、下宿先の近くに太陽館という和風旅館があって、そこが漫画家がカンヅメになる場所だったんですね。あっちにトキワ荘グループがあって、こっちには本郷グループがあるというような。だから私は必然的にみんなと知り合うことになって。石ノ森氏もちばちゃんもよく遊びに来てくれて、手塚(治虫)さんなんか「おおいメシ喰わせるから出てこ〜い!」と下宿の下から叫ぶわけ(笑)。

 手塚さんといえば、私が高校生のころ九州に脱走してこられて、博多の中洲に仮住まいされた。ところが誰も連れてきてないから、雑誌にも作品が載り始めた私と高井の研ちゃん(高井研一郎)たち九州漫画研究会に声がかかった。「テツタイコウ」と電報が届いて(※1)、近所の薬屋から電話をしてみるとご本人が出て「助けてくれ!」と。で、出向いてみると「好きに描いてくれ」と言うんです。ネームだけ書いてある。こういう場面だ。それだけなんですね。そして、人物の顔など大事なところ以外、背景に群衆を描いたり、建物描いたり、猫のエサ描いたり、その中に自分の出身小学校の紋章を入れてみたりしてね(笑)。自分が関わった!という痕跡を残したかったんです。いっぱいイタズラしたんですなぁ。夜中にふとんかぶってライト引き込んでバカ話しながら描いたり、当時はじまったばかりの航空便で原稿を送る役なんかをしましたね。

 このときのエピソードはいろんな人がいろんな話をしているけど、なにせ昔のことだから当事者でも曖昧になっていることもありましてね。アシスタントを連れてきてないから編集者が慌てて、東京の石ノ森氏や赤塚(不二夫)氏を待機させ、そこに手塚先生の発案で当時できたばかりの航空便でネーム原稿を飛ばして完成させた、と。そうだとすると、のちの有名漫画家たちがみんなで合作した作品ということになる。それはすごいと。でもね、事実はこちらで原稿は仕上げて送っちゃってるんで、石ノ森氏と赤塚氏は非常にガッカリしたという話でしたよ。「我々の原稿がカラーで出る!」ってはりきって描いたのに、すっかり完成した原稿が届いてボツになっちゃったんだから。かえって申し訳ないような気がしちゃいましてね…。実際、仕上がったものを見ても、私たちが九州で仕上げて送った原稿からの修正された感じはなかった。だから、それは当時の編集者の記憶違いでしょうね。

 手塚さんとのことはこんな話もあったな。デパートの売場でね、女性がズボンを脱ぐ…んだか履くところだか、そういう場面を描いて飾った。そしたらこれが主婦連騒動になりましてね。色っぽすぎると。カラダの線がリアルすぎると。しまいには教育上好ましくないと主婦連がデパートに押し寄せる騒ぎにまで発展したんですが、そのコマは手塚先生じゃなくて私が描いたんです…(苦笑)。

 私は環境に恵まれていたんですね。北九州、小倉や福岡のあたりは、大手新聞社の西部本社が多かったですから。15歳、高校1年生から毎日新聞の連載を持てたし、それを学費にあてたりできた。あのあたりは映画館も30館以上ありましたね。小倉だけで30館以上ですよ。洋画も邦画もたくさんかかってて、本屋も山のようにあったし…。中尾ミエさんの実家も大きな本屋で、今でも会うと「寶文館の娘で〜す!」と言ってくれますよ(笑)。なんかうれしいですよね。

 私は久留米生まれの小倉育ち。福岡はその中間で、自分の原稿を送るときは小倉から速達だったり、板付…福岡空港まで行って航空便だったりでしたね。出版社からは「一刻も早く勇姿を現したまえ」と手紙が来る。「行きたいけれどお金がありません。ついては原稿料を前借りできませんでしょうか」と返信すると、「来れば渡す」と返事が来る(笑)。それで何もかも質屋に入れて上京したんです。ちょうどトキワ荘にみんながいたころです。
※1.「手伝い請う」当時の電報は濁点も料金として加算されるので省略されるのが普通であった。

 

ねりまん上京して練馬へ…

 で、上京して、石ノ森氏、藤子不二雄氏、赤塚(不二夫)氏たちに会おうとトキワ荘を訪ねたんですよ。そうしたらたまたまみんな留守だった。安孫子氏(藤子不二雄Ⓐ)だけがいてね、私が廊下でウロウロしていると「おまえは誰だ!」と。「松本です」と言ったら、「おお、キミが松本くんかぁ!じゃ入れ」とね。お互い名前は知ってたけど顔は知らなかったから。部屋に招き入れてくれて紅茶ご馳走になりましたよ。そして各部屋を案内してくれて。「ここが石ノ森の部屋だ」とか。あれから何度も行きましたが、後年はたいへんでしたね。「おい、そこの隅に行っちゃいけない。床が抜けて落っこちるぞ」とか(笑)。面白かったですよ。

 トキワ荘も最初手塚さんだけだったのが、住人、通い人、どんどん増えましたけど、そのうちみんな独立するようになって西武池袋線の沿線が賑やかになりましたね。中でも練馬区は、手塚さんが富士見台の千川通りのほうにいて、ちばちゃんが駅の反対側、こっち側…いまは練馬高野台って駅ができて、まだ住んでますけどね。そして石ノ森氏が桜台。私が大泉。大泉は私以外にも萩尾望都さん竹宮惠子さんモンキー・パンチ氏、ほかにも新谷かおる、佐伯かよの…勘違いもあるかもしれないけど、とにかく大勢が練馬に住んでいたんですよ。梶原一騎氏も学園町ですよね。うちのまわりなんかも、なぜか絵描きが多く住んでいましたね。

 で、ここに家を建てることにして、いざ出来上がってベランダに上がってみたら、なんと向こうに東映の撮影所が見える。全然知らなかったんですよね。そこで出かけていったら東映動画があって、まぁそのうちオレも関わることになるだろう…なんて思いながら自転車こいでたら俳優さんとぶつかりそうになったり(笑)。そういう映画の街だから当時は街中や駅前とかで女優さんを見かけることも多くて、駅前で喫茶店に入ったら、扮装のまんまであべ静江さんがコーヒーを飲んでる。「休憩時間だからお茶飲みに来たんです」。のどかな時代ですよ。そういう役者さんが駅前をうろうろしてる。憲兵の格好したのがアンパン買って食べてたりするんだからギョッとするんですけどね(笑)。

 

ねりまん練馬との不思議で不思議すぎる結びつき

 そうしているうちにアニメを始めて、東映動画、いまの東映アニメーションに行くようになっても、自転車で3分ですからね。たいへんいいところに越してきたな、と。

 しかし、私と練馬は、それ以外にも本当に思いがけぬ縁がたくさんあるんですよ。

 私の父は戦中飛行機乗りで、陸軍航空士官学校があった入間にいたことがあるんですね。私が練馬に住むようになって話をしていると、「あそこの角を曲がるとあれがあって、こっちへいくとこういうのがあって」とくる。空から見てたのを覚えているんですね。これには驚きましたなぁ。ときどき大泉の桜並木を馬で走って酒を飲みにいく、ということもやっていたようです。陸軍の成増飛行場…いまの光が丘のことも詳しくてね。ちなみに光が丘という名称になったときの選考委員に私も入っていて、九州の父と子が、この練馬で邂逅しているわけですね。

 それから、私の処女作は『蜜蜂の冒険』というので、15歳、高校1年生のときですけれど、昆虫漫画ですから植物の名前を間違っちゃいけない。で、牧野植物図鑑というのを参考資料に描いてたんですよ。それが、こちらに来てみたら、牧野富太郎博士の家が駅の向こうでしょ?牧野記念庭園。不思議な…不思議な縁を感じますよね。

 こういう話もあります。以前、伊賀の電車のキャラクターを考えてくれと言われて、ハタと困ったんです。そして調べてみた。すると、驚いたことに、この大泉が忍者服部半蔵率いる伊賀組の給地。訓練場だったんですよ。なーんだ、ここ描いときゃよかったんだ!と(笑)。まさか自分の住んでいるところが伊賀とつながっているとは…。

 あとはなんと言っても、同年同月同日に生まれて同じ職業を目指すに至った松本零士と石ノ森章太郎が…時間にすると石ノ森氏が15分くらい早いらしいけど、宮城県と福岡県の時差で考えるとどうでしょうね…それが同じ練馬区で数多くの漫画やアニメをつくった。この奇縁を何と表すべきか…。

 ほかにも練馬には、この近くの比丘尼橋やら、照姫やら、ロマンチックな伝説も多くて、感性に火をつけられる土地というのもありますね。メーテルもそうですが、手塚さんの『火の鳥』とか『リボンの騎士』とかもね、つながってるような気がしますね。

(後篇へ続く)

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